新聞奨学生で進学した理由。
それは実家の経済状況に問題を抱えていたからである。
ただでさえキツい新聞奨学生に、家庭の事情が襲いかかる。
さてはてどうなる?
続・二〇世紀末頃の新聞奨学生事情。
につづく。
父は個人で仕事をしており、働けば働いた分だけ収入になるが、逆に働けなくなると、何の補償も無い。
この記事でわかること
- 家庭の事情に向き合う。
- 販売所の事情にも向き合う。
- 4年後、どうなった?
新聞奨学生は、
借金地獄
新聞奨学生によって得られる奨学金だけでは足りないため、実は、日本育英会の卒業後返済するタイプの奨学金も受けていた。
1年間、月に10万円振り込まれる奨学金だったかと思う。
新聞奨学生の奨学金と合わせて、学費へ充てる予定だった。
しかし、予想外・・・ いや、
案の定と言うべきか、予定は脆くも崩れ去るのであった。
ボクが高校生のころ体調を崩しはじめた父は、その後もなかなか回復の兆しがなく、大学へ進学して間もなく、かなり働けない状態になってしまった。
母もパートを始めたが、それだけでは生活が立ち行かなかった。
そんなある日、実家の母から一本の電話が入った。
「今月、生活費が足りないから、
いくらか送れないかい?」
逆 仕送りの依頼である。
父の状況を聞いてはいたので、うすうす、そうなるのではないかと予想はしていたが、実際言われてみると衝撃的である。
「いくら必要なの?」
訊くと、8万という。
痛い。痛いが。。。
その当時、ボクの給与の手取りは、新聞社の奨学金だけでは足りない分の学費を天引きされていたので、10万円弱。
ただ、そもそも衣には拘らなかったし、住み込みなので、食と住にもあまりお金がかからなかった。
このため、給与の大部分を実家へ仕送りすることが可能であった。
両親には感謝していたし、働けない理由も病気であることから、いよいよ親孝行!との思いで、二つ返事で経済的支援を引き受けた。
しかし、ひと月ふた月の一時的な支援では収まらず、事態は悪化の一途を辿った。
徐々に仕送りする額は増え、日本育英会から受けていた奨学金まで、実家の生活費に充てざるを得なくなっていった。
仕事と学業の両立のみならず、
小欲知足が求められる4年間となった。
いったい何の修行だ!?
の一言に尽きる。
普通なら「なんで自分ばかり」と思いたくなるような状況にありながら、どうして4年間も腐らずに頑張れたのか。
それはやはり、すぐそばに、境遇は違えど歯を食いしばって頑張っている新聞奨学生仲間がいたからだろう。
「大変なのは
自分だけではない」
という事実を身近に実感できたことは大きい。
変な勘違いを起こして自暴自棄にならずに済んだ。
仕事の優先順位
新聞奨学生になって、1年目のクリスマス。
仕事にも慣れ始め、少し調子に乗り始めた頃である。
年末の集金は通常より早く、20日ころから始まるため、25日の日曜日には、おおかた片付いていた。
その日の昼頃、階下の販売所から、バイクのエンジン音が聴こえてきた。
どうやら何人か集金に出る学生がいるようだ。
「ボクも集金に出た方がいいかな。。?」
なんて思いも少しはあったものの、
「無理して出なくてもイイよね、
今日くらいは・・・」
と、サボるというか、
残りの集金は明日回ろう!と心に決めた。
すると、その時、先輩から電話が。。
「集金出ないの?」
っう・・・
痛いところを突く。。
「あ、だいたい終わっているので、残りは明日回ります。」
「ふ〜ん・・・わかった」
なんだ、今の微妙な間は・・・
そしてなんだか素っ気ない。まるで、
知らねぇぞ…
と言わんばかりの口調であった。
今思えば、それは先輩からの忠告であったのだが、1年目のボクにはそれがわからなかった。
今日はクリスマスだし、
なんとなくクリスマスソングを聴いて、
部屋でゆっくりしたい。
過酷な日々の中に求めた、
ささやかなワガママであった。
そんな、ささやかなひとときを過ごし、時計を見ると20時になろうとしていた。
「あぁ、今日という日が何事もなく、
穏やかに終わりそうだ」
と、安堵していたその時。
プルルルルルルルル!!
ケタタマしい呼び出し音が販売所の2階に鳴り響いた。
オーイ!すぐに降りてこい!(怒)
インターホンから聞こえたのは、
ブチ切れた所長の声である。
一体何事!?
一瞬にしてクリスマス気分は吹き飛び、顔面蒼白。
慌てて階下の販売所に降りると、他にも集金に出なかった学生が2人呼び出されており、青ざめた顔で並んでいる。。
集金に出た学生は清算をしながら、冷ややかな目でこちらを見ている。
彼らの面前で、
「なぜ集金に出なかったのか!?」
と、ものすごい剣幕で詰められた。
挙句、
ボーナスカット!
を言い渡される。
人生初のボーナスが、ボーナスカットとなる事態に発展。
これは痛い。
激痛である。
「集金は残りわずかでした💦」
「明日回る予定でした💦」
と必死に弁明するも、
まるで聞く耳を持たない所長。
納得がいかなかったが、
次の一言にぐぅの音も出なかった。
「明日、お客に会えるかわからないだろ!」
「年末なんだから1日でも早く集金を終わらせてくれよ!」
ごもっとも、である。。
たった数件、時間にして1時間足らずで済む仕事だったのに、ちょっと甘えてサボったら、最悪の事態を招いてしまった。。
所長は、かなり理不尽に思える要求だったり、雷が落ちるような怒鳴り方をするため、学生の間ではしばしば
理不尽大魔王
と呼ばれていた。
しかし今振り返ってみると、純粋に仕事に厳しいが故の所業であり、結果として、甘えた学生の性根は叩き直され、社会の厳しさを知らず知らずのうちに教えてもらえていたように思う。
おかげで、仕事の姿勢のみならず、
なにくそ!
という反骨精神も培われた。
事実、ここで叩き込まれた仕事への姿勢や反骨精神が、その後の人生で役立った場面は少なくない。
しかし、この時、所長はボーナスカットを断行しなかった。
なんだかんだ言っても、学生を大切にしてくれる所長であった。
厳しくも暖かいとは、このことだろうか。
ボクは配属先に恵まれていていたのだと思う。
想定外は突然に
2年目以降、先のブログにも書いたが、人材不足の影響で、販売所の状況は荒れていった。
入ってきた新人が即リタイアし、代わりに雇ったホームレスのおっさんは、事故と警察沙汰を起こしてクビに。
3度目の正直で入った男は、無断欠勤でそのまま蒸発。
仕方がないので、辞めていった学生たちに声をかけて、アルバイトとして一時的に戻ってきてもらって難をしのいだ。
この状況に振り回されたボクら学生も、我慢しなければいけない事が少なくなかったが、所長の心労は、さらに計り知れないモノであっただろう。
そんなある日、朝刊配達のため販売所へ降りていくと、主任が鎮痛な面持ち立っていた。
そして、落ち着いた口調で
「昨晩、所長が亡くなった。」
とボクらに告げた。
あまりに突然の事で言葉が出なかった。
昨晩まで元気な姿を目の当たりにしていたので、理解ができなかった。
いろいろな思いが交錯し、朝刊配達を正確に終えることに苦労したことを今でも覚えている。
言ってみればボクらは、突然船長を失った乗組員のようなものである。
しかし、新聞屋に臨時休業は無い。
新たな所長が配属されるまで、様々な荒波を一丸となって乗り越えるしかなかった。
親ガチャで大学中退?
そんな波瀾万丈な新聞奨学生生活も、いつしか4年の歳月が過ぎようとしていた。
新しい所長がやってきて、新しい後輩に囲まれていた。
いつのまにか、学生の中では最年長である。
新聞屋としては一人前になった。
しかし、学生としてはどうだったか。
恐ろしいことに、まだ2年分の習得単位を取ったに過ぎなかった。
4年かかって2年分の単位である。
卒業までまだ半分。
単純に考えると・・・
あと4年もかかる。
結局1番の敗因は、朝刊配達の後に寝てしまうことによる、出席日数不足だった。
だらしがない
の一言に尽きる。
だが、この朝の睡魔は、フツーの学生の
夜更かしして朝起きられなかった💦
テヘっ♪
というレベルではない。
しかし、それも言い訳にすぎない。
睡魔に負けて単位を落とした事には変わりがない。
コレに負けずに卒業していった新聞奨学生がいることも事実。
ただ、ボクは苦戦してしまった。。
とはいえ、これで卒業を諦めたわけではなかった。
新聞奨学生は、5年目以降も継続可能で、額は減るものの、続ければ奨学金は支給された。
給与と併用すれば、なんとか続けられた。
しかし、家庭の事情が、それを許さなかった。
ボクは、給与を併用できないのである。
これまでも給与は、可能な限り実家の生活費として仕送りしていた。
4年間、父の病状は良くならず、家計の状況はまさに火の車だった。
消費者金融にも生活費を借りねばならない事態に陥り、頻繁に取り立ての電話が鳴り、家族の心労も計り知れなかった。
そんな実家の状況を考えると、実家への仕送りの額を減らし、5年目以降も新聞奨学生を続けるという選択は、事実上不可能であった。
「そんなの
親の問題なんだから、
放っておけば良い」
自分の人生なんだから卒業を目指すべき!と助言してくれる友人もいた。
確かに、それも一理ある。
ここは経済的に親とは絶縁して、自分の人生を優先させる道を選ぶことも可能である。
そうした方が、ボク個人としては、おそらく楽な人生であったかもしれない。
しかし、これまで、貧しくも大学まで行けるように育て、後押ししてくれた両親を見捨てることはできなかった。
恩を仇で返すようなものだし、この両親の下に生まれたことも含めて我が人生である。
最近、
親ガチャ
という言葉を耳にするが、
もしガチャに例えるのなら、
ガチャを引いたのは自分自身なのである。
要は、この現状を親の責任にしたり、ただただ不運と嘆いたところで、何も解決しない。
親ガチャとは、無意味な発想のように思う。
家庭の問題に自分だけ目を背けることは、自分の人生から逃げることに他ならない。
逃げた先に待つのは、きっと後悔だし、また同じような困難に遭遇して逃げるという、負のスパイラルに陥るだけだろう。
新聞奨学生としての4年間て培った反骨精神が、逃げの選択を許さなかった。
本当にありがたい4年間だった。
こうしてボクは4年間の新聞奨学生生活の末、
「晴れて」大学を中退し、新聞奨学生を卒業した。
新聞奨学生生活の終幕
配属のあの日から4年。
毎日。
午前3時に起床し、朝刊配って、大学行って、夕刊配って、レポート書いて・・・
毎月。
土曜日にはセールスに走って、25日には集金が始まって、会えないお客に苦労し・・・
ほとんど変わらない日々のルーティンの中で、
ほとんど変わらない道(配達順路)を、
ひたすら駆け回った日々。
恐ろしいまでの単純作業の繰り返しのようだが、
そこにあった濃密なドラマの中で、数々の貴重な経験を賜った。
その連綿と続いた繰り返しの日々が、
とうとう終わりを迎える日の感慨深さと言えば、
筆舌に尽くし難いものがある。
ラストラン(朝刊配達)を終え、感無量。
荷物を運び出した空っぽの自室に、
配属の日を思い出した。
「お世話になりました。」
「おぅ、元気でな!」
「先輩、お疲れっしたー!」
主任や所長、後輩たちに見送られ、4年間という激動の日々は、別れの言葉を交わした僅かなひとときを最後に幕を閉じた。
毎日走ったあの道も、この道も、この商店街も・・・
もう走ることは無いんだな。
胸に込み上げる熱いものを抑えながら、帰路についた。
にわかには信じがたいことだが、
明日からは午前3時に起床する必要も無く、
眠い目を擦って大学へバイクを飛ばすことも、
毎月20日に始まる集金に怯えることもない。
普通の人と同じ生活リズムで過ごせるのだ。
普通の日常に戻ったことを実感したのは、
帰宅後、その翌日の朝を迎えた時だった。
結局、新聞奨学生として進学してどうだったのか?
結論から言えば、
かけがえのない日々であった。
普通に進学できるのなら、その方が学業に専念できることは言うまでもない。
ただ、仕事と学業の両立という状況であったり、新聞販売所という様々な人間が集まっくる環境下で得られた経験は、現在のボクを支える大きな礎になっている。
学費が無いから進学を諦める。
という選択肢もあったのだろうが、新聞奨学生として進学してみた結果、卒業はできなかったものの、それを埋めて余りあるものを得られたと思う。
「新聞奨学生。
そんな人生もあるのか」
と、知ってくれる人がいたら嬉しい。
そして、現在も新聞奨学生として頑張っている学生に、心よりエールを送りたい。